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雨のせいじゃない

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2014年 03月 11日

宇部の彫刻1

朝倉文夫(あさくらふみお)

作者のことば
 ……従来の制作は自分の主題の強いものばかりだったから非常に苦しんだ。ところが自然を見ると、自分が考えているものより自然の方がどうもよく見える。かといって主観を捨てるわけにはいかない。しかし中途半端な態度では主観と客観がばらばらになって、いいかげんなものができてしまう。
『墓守』を作ったとき、私は純客観の立場にいた。するとそこに墓守のおじいさんが現れるように出来て実に制作が気持ちよくはかどった。純客観は正岡子規が論じていたが、私もこれでなくてはいけないということに気づいた。そしてその後私は主観と訣別して客観に徹する態度に一変した。(『私の履歴書』日本経済新聞社刊「彫塑餘滴」より)


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渡辺祐策像 1936年 渡辺翁記念公園 ブロンズ 350x120x100 宇部興産株式会社寄贈(2014.03.11撮影)


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(2014.03.11撮影)

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渡辺翁記念会館(2014.03.11撮影)
今日は2014/03/11 半旗が掲げられていました


解説(田中幸人)
渡辺祐策は宇部興産の創業者である。この像が立っている記念公園には村野藤吾の昭和期の名建築の一つといわれる渡辺翁記念会館もあって宇部市が誇る文化財の一つだ。像の作者・朝倉文夫は当時帝展のスターであったし朝倉塾という彫刻塾を開いて一大勢力を築いていた。抜群の描写力、卓抜した表現力は同時に教育者としても優れていて、朝倉塾には明治末から大正・昭和にかけて多くの若者が入門した。その中には木内克や福沢一郎などもいた。朝倉は多くの動物像や有名人の肖像、銅像を手がけたが、この像がつくられた昭和10年代は「犬養毅像」(岡山・吉備津神社)「菊五郎・団十郎像」(東京・歌舞伎座)「嘉納翁像」(筑波大)などがある。


朝倉文夫の略歴
1883(明治16) 大分県大野郡朝地町に渡辺要蔵の三男として生まれる
1893(明治26) 養子として朝倉宗家を継ぐ
1902(明治35) 竹田中学校を中退、上京し実兄の彫塑家渡辺長男宅(旧下谷区谷中初音町)に住み彫塑を学ぶ
1903(明治36) 東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻選科に入学
1907(明治40) 同校彫刻選科卒業、卒業制作「進化」谷中天王子にアトリエ新築、朝倉塾として子弟を養成
1908(明治41) 第2回文展「闇」2等賞(最高賞)
1909(明治42) 東京美術学校研究科終了、第3回文展「山から来た男」3等賞
1910(明治43) 第4回文展「墓守」2等賞
1911(明治44) 第5回文展「土人の顔、其の二」3等賞
1912(大正01) 第6回文展「若き日の影」3等賞
1913(大正02) 第7回文展「含羞」2等賞
1914(大正03) 第8回文展「いづみ」2等賞
1916(大正05) 文展審査員に任命される
1919(大正08) 帝展審査員に任命される
1921(大正10) 東京美術学校教授に任ぜられる
1927(昭和02) 第1回朝倉塾彫塑展覧会(東京都美術館)
1934(昭和09) 台東区谷中天王寺町、初音町にアトリエを改築、朝倉彫塑塾とする
1945(昭和20) 帝室技芸員に任ぜられる
1948(昭和23) 第6回文化勲章受章(大分県1号)
1958(昭和33) 日展顧問となる
1961(昭和36) 台東区名誉区民推載
1964(昭和39) 4月18日、急性骨髄性白血病にて死去


その他の作品

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墓守


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たま


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「よく獲たり」と作者


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大隈重信像

by ubeon | 2014-03-11 19:48 | 宇部の彫刻


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