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雨のせいじゃない

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2015年 05月 31日

宇部市の地図(昭和13年版)

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宇部市全圖 昭和十三年度版
国境が強調されています 鍋島まできっちり
吉敷郡西岐波村、厚狭郡二俣瀬村、厚狭郡厚東村、厚狭郡厚南村と合併前です

常盤池の現在の湖水ホールあたりに「ゴルフリンク」って書いてあるんですけど、営業してたんですかね
草江海水浴場の所にも破線の部分があって、凡例を見ると「宇部ゴルフコース兼飛行場」と書いてあります
飛行場の方はわかりますけど、、、


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右上に宇部中學校があります

現在の工学部通りが参宮通り過ぎに無くなっています
破線が現在の宮地公園につづく路まで工事予定になっています
その宮地公園ですが、その前は宇部農芸高校だったのは、幼稚園のとき豚舎の見学に行ったことがあるので憶えています
この地図では「○獣解体場」となっています(一部読み取れません)

工学部通りの延長はこの地図の「宇部商業學校」(現在の宇部工業高校)の北側をかすめて、出雲大社分院の南側を通り真締川を渡り「護国神社」方面と「樋ノ口橋」方面に分かれる三叉路になりました
この橋、御影石を並べた沈下橋で自転車で通るのはかなり恐かった
その後橋は立派なものになったけど、朝の通勤時間帯、大渋滞してたので、杉田時計店のおいちゃんが交通整理をしてました。
信号にかかわらず臨機応変な捌きは見事でした
現在は新川小学校に続く道ができて十字路になりましたが


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右下に神原公園、神原小學校、縣立宇部高等女學校(現在の琴芝小学校)が見えます
神原公園の福原公銅像、なんで再建されないのかなぁとのんきに思っていましたが、戦時中に供出されたのだから戻るわけないのを護国神社に行って気づきました
渡辺翁の銅像も供出されましたが、型が残っていたから昭和28年に再建されたということを忘れていました
縣立宇部高等女學校は後に宇部中と併合して、元の宇部中が「北校」、女学校側が「南校」と呼ばれていたと聞いております
私の時代はまだ宇部校のことを「北校」と呼ぶ人は多かった気がします
南校は琴芝小学校になってしまったので聞きませんでしたが

少し西側に「宇部高等技藝女學校・宇部女子商業學校」が見えます
後の宇部女子校、現在の慶進高等学校ですが、産業道路を挟んで南側は現在は放射線科やらフォーユーになってますが、戦争を挟んで何があったかは知りません

となりの「宇部紡績株式會社」、現在は県の総合庁舎、宇部市立図書館、ガス屋さんになっています
図書館敷地内に紡績工場の「ももいろ煉瓦」が残されています

さらに西に行って樋ノ口橋を渡ると「縣立宇部工業學校」「高等小學校」があります
宇部工業高校は前出の商業高校の場所に移転したのでしょう
高等小學校というのがわかりません
聞いたことがあるかもしれませんが、今はわかりません
その後、県立の医学学校になって、現在の山口大学医学部になったと聞いています

この医学部の正門前あたり(松浜町)に幼稚園の頃住んでいたので思い入れがあります
大正町(現昭和町)のばあちゃんの家と行ったり来たりでしたが、幼稚園の年長組になるとまじめに通っていました
年少、年中時、さゆり幼稚園に通っていたのですが、折り合いが悪くほとんどサボタージュでした
青い目のシスターがうじゃうじゃいると恐いです(今は平気です)
唯一の日本人先生とは折り合っていたのですが
3年目は小松原幼稚園に転入しましたが、先生が全員日本人で安心しました
こちらも英語の授業があったり、教会で礼拝があったりしなのですが
松浜町に話を戻しますと、現在ふじた画房のとなりの駐車場のところにふじた商店があって、よくお菓子や丸美屋ののりたまを買いに行ったのです(商店と画房の位置が逆だったやもしれません)
ある日、ウエハスが食べたくて買いに行ったのですがウエハスが思い出せなくて、店のおねいちゃんに「れいはい」下さい言うてしまった
おねいちゃんの頭上に「?」がいっぱい(当然、今思い出しての言い回しであるが)
自分も違うのが分かっていても、「れいはい」以外思いつかない
ショーケースを探し回って「これ」
おねいちゃんがうれしそうな顔をしてくれた
「まちごうちょった」
「は~い」
なぜかこの情景が強く印象に残っているのです


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今はなきソーダの引き込み線もこの地図では建設予定なのですね
大正町(現昭和町)から東見初炭鉱は2、3歳時ばあちゃんの家から遊び回っていましたが、まだ縦坑もない時代みたいですね
後日、東見初炭鉱周辺の地図と「一人てくてくまち歩き」して紹介しようと画策しております(絶対やるとは言ってません^^;)


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宇部の中心市街地ですが、空襲前なので現在と違い過ぎて比較が難しいです
右側に見える「宇部劇場」が後のエムラですよね
市役所の位置は現在の郵便局?新川町三丁目に末広の本屋があって、二丁目に寺があるところに「ちまきや」ができたのですね
常盤通りをまっすぐに広くしてからですが

老松町のワンブロック南側の通り、岬通りから続く道で、父親から話をよく聞いていたのですが、
大正町からてくてく歩いて、錦橋を渡って万来町にサーカスを見に行ってたと
現在の錦橋と角度が少し違っていて、空襲を免れて現存する錦橋商店街の細い道の延長に橋があったそうです
あの細い道をボンネットバスが通っていたと聞いています(岸和田のだんじりを連想してしまいます)
昔のバスの方向指示器って剣型の赤い板がパタンって横たわるものだったでしょ
ぜってい引っかける

地図の左上に「新川小學校」がありますが、現在は宇部興産ビル「ANA(エーエヌエー、アナではない)クラウンプラザホテル」なのは皆さんご存じ
記念館のピアノはこの新川小學校の講堂に置いてあったようです


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宇部線と平行して海側に走る私鉄「宇部電気鉄道」があります
両者が同時に存在していたことは知りませんでした
宇部線の引き込み線と電気鉄道で荷物の受け渡しをしていたのでしょうか
電気鉄道は鉄工所と窒素工場の間を南下してセメント工場、火力発電所まで伸びています
西側へは宇部線は「助田」「藤山」「岩鼻」と続くのですが
電気鉄道は藤山駅の海側に「居能」駅があります

鉄工所の北西に「長門工業學校」ってのがありますが、これは渡辺祐策翁が開いた学校なのでしょうか


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左側の小松原通りに浄園寺が見えます
斜め右下に三炭町、後の興産通りと新川駅との位置関係が違いますね
中央銀天街も当然違いますね(戦後の闇市から今の形になった)
引き込み線の軌道跡が児童公園(銀天プラザ)になったと聞きました
新川座のあとがセントラル大和(中央大和)ですね
駅前大和はどこなのでしょう


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右側に「沖の山小學校」が見えます
子どもの頃は西部体育館のところにあったので意外です
後に市営住宅になったと思います

小松原幼稚園に通う内に小松原に引っ越してしまいましたので、ここらへんも思い入れがあります
鵜の島小学校に入学して程なく炭鉱が閉山して沖の山小学校も解体されて児童はバラバラになりました
宇部にそのまま居着いた家庭の子は市内の学校に分散したみたいです
鵜の島小学校にも何人かが転入してきました

元々宇部の炭鉱で働く人はよその地域の人が多かったのですが、島根、大島町、広島、新潟の人が多いのを聞いていました
宇部弁も山口弁とは少し異質なのはこのせいなのかと思ったり思わなかったり

閉山を前にして人材不足の折、遠方の企業から勧誘が多くあり、会社見学と称して招待されて、歓待されていたようでした
それを目当てに何回も招待を受ける輩がいると父親から聞いた覚えがあります

話を戻して、ほぼ中央に見える鍋倉山ですが、浜バイパスを通す為に分断する必要があったのです
破線とは違うルートを通っていますが鵜の島小学校から藤曲まで現在のバイパスの工事が私が小学生の頃始まりました
現在の西部体育館のところの沖の山小学校跡に陸上自衛隊が駐屯(?)して鍋倉山の発破解体を少しずつ進めておりました
沖の山小学校のとなりに結構な広場があって、炭のカスでならされていたので、バッタ取りなんかしてると東見初の事務所裏の炭カス山にケンカを売ったように靴下が真っ黒になります
この広場には溝が長く掘ってあり、片側に土が盛ってあり、自衛隊の演習が行われたのだろうかと思ったりしたのですが、発破が始まるずっと前からあったような気がして時系列の自信がありません

この広場の南側の端っこに塀に囲まれた立派な屋敷がありました
そこの主を私達は「スイカじじい」と呼んでいました(理由はわかりません)
当時の子どもたちの連みかたは小学1年から6年までがまとまって遊んでいました
先輩は後輩に人生の難しさを教えてくれました
「スイカじじい」だけは違うようで私達下級生は上級生の言うがまま、屋敷にロケット花火を打ち込むのです
「スイカじじい」が顔を真っ赤にして追いかけて来ます
必死で逃げて道を渡って山本商店の右に逃げる者、左に逃げて赤川沿いに住宅街に入る者
スリルはあるけど、私には「スイカじじい」にあのようなことをする理由はなかったのです
上の命令なのです
小さいイスラム国が存在していたのでしょうか

話が脱線してしまいましたが酒のせいやもしれません
「一人てくてく」のネタになったかどうか、車の置き場所を考えて歩いて見ます



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by ubeon | 2015-05-31 02:44 | 宇部


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